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日本文化の重層構造と吉備の児島

文化の歴史は地層を見るようである。
日本文化がどのように成立したのか?基本的に文化は人によって伝えられる。人の移動と密接な関係がある。
日本人の存在自体が重層的である。
南方、北方、そして半島からの人の流入が日本文化の重層構造を作ってきた。
その中でも最も多かったのが半島からの流入である。
もとより8000年前までは半島と日本列島は陸続きだった。
朝鮮半島と日本がまったく別の国になって行ったのは、新羅が唐と連合して高句麗と百済を滅ぼし、新羅が半島に統一国家を打ち立てた時以来である。それまでは半島と日本(倭国)は大きな隔たりは無かった。

倭国の文化は瀬戸の海上交通を媒介に育って行った。その中心地がほかならぬ吉備の児島である。そして吉備の児島に差し向かう吉備の本土と対岸の讃岐である。
昨年総社市の秦に八丁ぐろ古墳が発見され話題になった。全長80メートルの前方後方墳である。4世紀前半のこの時代最大級の古墳である。
魏志倭人伝にある「卑弥呼(ひめこ)」の時代が3世紀である。卑弥呼なきあと倭国の大乱があったと記録されているその時代である。この時代にもっとも強大な力を持ち影響力を持っていたのが「吉備」であることは間違いない。その後応神天皇の時代になり、魏史には「倭の五王」と記録に残る時代となる。

この時代の「吉備の児島」の姿は・・・・?
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田の口港の鳥居と狛犬

田の口港の前を通ったので鳥居と狛犬の写真を撮ってきました。
吉備楽土
にアップしました。

児島文化交流センターオープン

児島文化交流センターがオープン
オープンイベントで、今日は午後から「コロポーニョ」の演奏、
コロポーニョの代表からビデオを撮ってほしいと頼まれていたので、午前中の用事を済ませて急いで児島に向かったが予想外に時間がかかって、会場に到着した時は開演直前、
三脚を準備するまもなく演奏が始まって・・ずっと手持ちで録画・・
きつかったし、ぶれるし、散々でした
ごめんなさい・・うまく撮れなくて・・・どこかでリベンジしないといけないですね
最後の、吉備の児島は何とか三脚を設置して撮れましたが・・

それにしても、結構いいホールです。
これまで児島は老朽化した児島文化センターのほか演奏会に使えるホールが無かったので・・本当に文化不毛・・
とまでは行かないけど・・・みんな外に出て演奏会を持ったり・・・

会場周辺は、前の架橋記念館も一体的に整備、記念公園も、道路だったところが整備されて遊歩道に・・
とても良くなった。
これから児島を、文化の香りのする町にしていってほしい。
中味が問題だね!

終わって外に出て、ベンチに腰掛けて・・
ちょうど・・児島の文化協会を引っ張ってきた片沼さんと・・話が歴史の話になり・・
児島に歴史を話す会がほしいなと言う話に・・
有志が集まって児島の文化や歴史を語る会ができると良い・・

ブログ更新を怠っていました

最近更新を怠っていました。
その間、訪問してくれた皆さんにお礼申し上げます。
「吉備の児島」で検索すると結構トップに出てくる当ブログ
皆様のおかげです!

あらためてブログを大切にして行こうとPCに向かっています。
筆者のもう一つのブログ「吉備楽土」にも書いたのですが、吉備の国岡山歴史講座を始めることになりました。

日本史における「吉備」の位置づけは一般に思われている以上に重要な役割を果たしています。その中でも「吉備の児島」は特別重要な役割を果たしてきた歴史があります。
日本の古代国家形成の揺籃は瀬戸内海が担ってきています。
もちろん、日本海沿いの「出雲」や、その他の日本海沿いの地域もその役割がありましたが、なんと言っても、瀬戸内海文化圏が、「日本」という国家形成にもっとも大きな役割を果たしてきています。
その瀬戸内海のもっとも中央に位置したのが「吉備の児島」です。
「吉備」と対岸の「讃岐」を含めた地域が、弥生後期から古墳時代にかけての日本列島における文化の中心地域であったことが証明されつつあります。

卑弥呼の邪馬台国論争も、「機内」か「九州」かと争っていますが、こんな争いは現代のこと、魏志倭人伝時代のこの列島の列島の中心地は「吉備」ではないのかと言うのです。

今は倉敷市のとして団地の近くにある「楯築遺跡」は有名ですが、ここは前方後円墳の原型だといわれています。
岡山大学教授として日本の考古学史に歴史的な業績を残した近藤義郎先生は、この楯築遺跡を発掘されて、日本固有の墳墓形態である前方後円墳が吉備から始まったことを示唆されています。
5世紀はじめに築造されたといわれる造山古墳は、当時としては列島最大の古墳であったといわれます。造山古墳は実在が確認される最古の天皇といわれる「応神天皇」の時代に一致します。それは応神天皇の時代に日本列島の最も中心になった地が「吉備」であったということではないでしょうか。

早島とコロポーニョのコンサート

コロポーニョのコンサートが早島で開かれた。何で児島でなくて早島?と一瞬思ったが、終わってみてその意味がよく分かってきた。もちろん音楽ホールとして早島町のゆるびの舎が音響や設備の面からもよくて岡山や倉敷の合唱団もよく利用するホールであることや、今回賛助出演のコールゆうぶんげんも岡山を拠点の合唱団でちょうどいい場所と言うのもあると思うが、私はそれ以上に歴史と文化を研究するものとして、早島が山陽道と金比羅街道の分岐点にあると言うことに着目したい。
以前別の合唱団のコンサートがあって終了後近辺を同好の志と見て回ったことがあったが、ここ早島は、かって児島湾干拓のはしりとなる宇喜田堤の建設ととともに、山陽道と出雲街道、そして金比羅街道の分岐点にある。
江戸時代は金比羅詣でした人たちは、児島の田の口に上陸し、由加大権現に参拝し、林の熊野神社に詣でてのち、早島に出て後山陽道を瀬尾、大福、岡山から姫路方面に行く人、山陽道を下り倉敷、玉島へと向かう人、北方面、総社や備中松山方面へ行く人々でにぎわった。今も案内石碑に名残が残る。
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Author:kibinokojima
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