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赤穂と秦氏 児島の野崎家 と小西増太郎 

「シルクロード渡来人が建国した日本」(久慈力氏著 現代書館)という本を読んでいる


秦氏を乗せた船が最初に到着したのが赤穂
だから播磨には秦氏の遺跡が多い

一説によると播州赤穂 [忠臣蔵]の物語は、赤穂が秦氏の地を引いた地だからと
これはどうか 少々疑問が残る

さて、児島の野崎武左衛門
塩田王として有名
ルーツは播州 昆陽野の名は行基菩薩ゆかりの昆陽池とつながる
武左衛門の最初の妻野実家は播州屋を名乗った昆陽野家

野崎家(当主は2代目の野崎武吉郎ー武左衛門の孫で岡山県最初の貴族院議員となる)は基督教(ロシア正教)の宣教師を受け入れ
その宣教師の教えに感銘を受けた
一少年が 「神学校に行く!」と 野崎の家を飛び出したのを見つけ
そのれを許したのみならず 支援したという。
それがのちのロシア文学者 小西増太郎

小西増太郎は野崎家の支援を受けて お茶の水のロシア正教の神学校を出て
その後ロシアにわたり 当時一世を風靡した トルストイに出会い
その当時、東洋思想 特に「老子」に傾注していたトルストイの
「老子」のロシア語訳に協力したという。
その時トルストイからもらったロシア語の聖書が
小西益太郎の死後出てきて話題になったことがある

小西益太郎には二人の息子がいたが
長男は元野球解説者として有名な小西徳郎さん

野崎家がロシア正教の宣教師を受け入れ
小西増太郎を支援した言うのは

野崎家は、渡来系氏族「秦氏」の末裔か?
私の推測であるが
案外 赤穂に上陸 播州に定着した 秦氏の末裔というのは あながち間違っていないのではないか、秦氏でなくとも、行基菩薩とゆかりの昆陽野から来ていることは何らかのつながりを推測する。
事業への熱心さや ロシア正教を受け入れ 信仰に走る青年を支援したり、難民救援に尽くしたという、その精神など 
「秦氏」の歴史に共通するものを見る

野崎家のことはさらに追って紹介したい。



野崎の旧姓は昆陽野 塩田を開いた味野と赤崎(現倉敷市児島)の地名から野崎と名乗ったという




こや【昆陽】(コトバンクより)
兵庫県伊丹市内の古い地名行基築造したと伝える昆陽池、また、その創建と伝える昆陽寺がある
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西大寺観音院と会陽 秦氏 皆足媛

西大寺観音院の謎?
西大寺縁起にある皆足媛とは

以前から疑問だった
皆足媛と秦氏、藤原氏の謎について
mr yanagi氏の[宝木伝説]に詳しく述べてある。
秦皆足というのは媛ではなかった。夫が秦皆足ということらしい。
つまり媛というのは、秦皆足夫人ということか。
なぜ、藤原皆足か?秦氏では通りが悪いので藤氏を名乗ったとのこと
私としては謎が解けた

ここに来ると 周防、玖珂の秦氏のルーツが知りたくなった。
それと観音院の歴史についてはもう少し知りたい。

吉備の国で秦氏といえば
備中 今は総社市秦原の廃寺
備前 幡多の遺跡など そして美作法然上人の父母のルーツとしての秦氏
備前 備中 美作 そして備後も含めて 吉備の国における秦氏の歴史の流れが見えてこないか
どなたかこの辺り詳しい方があれば教えていただきたいのだが


先ほど紹介した、mr yanagi氏の[宝木伝説]
学術的にも詳しくて 参考にさせてもらいます。

西大寺会陽

2月20日は西大寺の会陽
500周年
知人のジャーナリストと西大寺に行きました。
昨年も行ったが、今年は、2時間早くなって、少し戸惑った。
午後4時ころ、「少年はだか祭」が
小学、1~2年は「たから餅」、 3~4年は8本の「五福筒」、5~6年生は[宝筒」を争奪戦
水垢離場で体を清めた少年たちが
元気よく掛け声をかけて行進し、一斉に[宝]を求めて争うさまは、庄ら大きくなったら本物の裸で会陽に参加するようになるんだなと期待する。
本番まで時間があったので、近隣を散策、
映画[三丁目の夕日]の撮影があった町並みや、昔高瀬舟が接岸したという、岸などを見て回った。



西大寺は、今から1300年ほど前、天平勝宝3年(751)、周防の国玖珂の媛、藤原(秦)の皆足媛が観音様(千手観音)を都の長谷寺に納めようと旅の途中、備前の金岡(現在の観音院の地)港に到着、再び出港しようとすると船が動かない、これは何かのお告げと、庵をむすんで観音像を安置したのが始まり。
宝亀8年(777)、安隆上人(あんりゅうしょうにん)が大和の長谷寺で修行三昧されていたとき”備前金岡庄の観音堂を修築せよ”と夢にお告げがあり、金岡に来る途中、児島の沖で龍神に会い、犀の角を授けられて、金岡に到着、堂宇を整備[犀戴寺」と名付けたのが始まりとか。

少年はだか祭りを待つ観音院本堂前

その後、後鳥羽上皇が承久の変のとき西国の社寺に戦勝祈願の祈願文に西大寺と書かれたので、その後[西大寺]と書くようになったそうである。

西大寺縁起に出てくる[皆足姫]が秦氏?というのは、昨年500回目の会陽を記念して、岡山市のデジタルミュージアムで寺宝展が開かれたおり、秦皆足姫と表記されているのを見て、教えられた。
「秦氏」については、法然上人とのかかわりでも「秦氏」が出てきているので、興味が尽きない。

午後7時花火大会が始まると一気に盛り上がる。
本堂前には続々と裸が結集!威勢のいい掛け声が響く。会社などのグループが、それぞれ横幕をもったりして行進してくる。


午後10時の[宝木](しんぎ)投下の前になると、激しいもみ合いと裸衆の雄たけびが「ウォー」と激しさを増し、強烈な印象、まさに[天下の奇祭]である。

そもそも会陽は西大寺開基の安隆上人(あんりゅうしょうにん)が東大寺で行われていた、修正会(しゅじょうえ)、正月元旦から14日間、祈祷をささげ、これが厳修されていた。
今から500年前、永正7年(1510)忠阿(ちゅうあ)上人の時、修正会の結願の日参詣の信者に守護札を出したところ、これを戴く者は福が得られると希望者が続出し、やむなく参詣者の頭上に投与したので奪い合いとなり、身体の自由を得るために裸となり、無垢の信仰心は水垢離となり、遂に修正会と不離一体の今日の会陽の形が成り立ったと伝えられている。


今でも修正会は厳格に行われ、それが観音院の伝統であり、特に[宝木](しんぎ)の作成には精誠と祈りがささげられている。
単なる民間信仰でなく、民の平安を願う祈祷の精誠が厚く捧げられているのが、500年間、会陽が続けられて来た伝統であると思う。


備前岡山の地がこれまでよき伝統に守られ、政治も文化も経済も発展してきた所以は、この西大寺観音院の伝統であるかなと思う。

誕生寺・波多神社・本山寺

19日(金)人物伝を語る会で「法然上人}の話をする予定で、今日は誕生寺に行ってきた。

幸いご住職がおられてお話を伺うことができた。
誕生寺の住職は代々う漆間姓を継いでおられるとのことで、今のご住職も法統を継いでおられる。

これまでたびたび誕生寺は訪問させているが、ご住職にお会いするのは初めて、多少緊張気味だったが、快く会っていただいた。

特に最近話題になっている「法然上人と秦氏」についてお聞きした。
秦氏の君といわれる母親はずいぶん、心優しい方だったようで、そして信仰深い方だった。
秦氏というのは本当に信仰に熱い渡来系氏族で、殖産にもたけていて、葉は秦氏の君の生家は「長者」であったそうである。
父を失った勢至丸(幼少時代の法然上人)は父の遺言に従い、母親の弟が住職をしていた菩提寺(現奈義町)で13歳まで修行するが、この秦氏の弟の住職もとても位の高い方だったということがその名前からわかるとのこと、[信仰に篤い+殖産事業の成功者]という秦氏の基本的イメージ通りだったのであろう。

ご住職に「波多神社」というのがあるよと聞いた。

秦氏の君は夫漆間時明との間に子供がなかなかできなかったので、当時栄えていた本山寺に夫とともに21日間参籠した(通ったという話も)

その本山寺を尋ねる途中に波多神社がある。縁起をみると斉明天皇御宇五年に勧請とある。658年である。波多は秦から来ているのであろう。下の写真は波多神社本殿延宝2年(1674年)の建造となっている。


本山寺を訪れると、ちょうどご住職の奥様がどなたかと話をしておられて、参拝の許可をもらおうと尋ねると、「歴史の話はこの方に聞いたほうが」と声をかけてくださった方が、檀家総代の方。もう86歳といわれるが、軽トラックに乗っておられてお元気な方で、いろいろと本山寺の縁起など話してくださった。

本山寺は大宝元年(701年)開基 天永元年(1110年)に、弓削師古(ゆげのもろふる)が現在地に移し百二十坊といわれるほど大いに栄えた、という。

漆間時国夫婦が参籠して産まれたのがのちの法然上人、勢至丸であった。これが長二年(1133年)である。

誕生寺のご住職の話では秦氏の君は「長者の娘」ということであるから、秦氏の家はずいぶん栄えていて、本山寺の造営にも深くかかわっていたのではないかと想像する。写真は本山寺本堂、1350年の建造で国指定の重要文化財に指定されている。法然上人誕生の時代からは少し下るが往時の繁栄を偲ばせる建物である。この本殿の奥は山王社が祀られている。

誕生寺については誕生寺HPを

法然と秦氏

「法然と秦氏」
元中外日報記者の山田繁夫氏の書いた、「法然と秦氏」が注目です。
これまで法然上人の母親は「秦氏の君」と言われてきましたが、父方の漆間氏も「秦氏」であると山田氏は書いています。
しかも、法然上人の生涯の歩みを見てみると「秦氏」とのかかわりを示す歩みが随所にうかがわれるというのです。
出家して比叡山に登るまで那岐の菩提寺で修業したのも母親の弟もと
比叡山から南都(奈良)に遊学した経緯も秦氏との関連を見ることができる。
この時代、すでに秦氏が日本に渡来してから数百年を経過しながら、秦氏が日本の社会の中で独自のアイデンティティーを保ち続けていたこと、法然はまさにその秦氏の代表のような立場で活躍した大僧侶であったということである。
晩年激しい反対を受け法難に会うが、法然の教えは大衆に根付きまた、時の権力者からも歓迎されていく。
天皇家も代々浄土門に帰依する者多く、江戸時代を築いた徳川家は浄土門であった。

写真は誕生寺境内の椋の樹 二流れの幡が流れて来てかかり、法然上人が誕生したという。今の木は3代目とのこと。


岡山に「岡山人物銘々伝を語る会」というのがある。
毎月第3金曜日の午後6時から8時まで主に県立図書館で「人物伝」の研究発表をしている。
2月は19日(金)午後6時から県立図書館で 「法然上人を語る」のテーマで発表の予定
関心のある方はぜひ行ってみてください。会費は500円
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kibinokojima

Author:kibinokojima
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