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五流尊龍院と児島高徳誕生の碑

五流尊龍院
修験道の総本山、五流尊龍院は、後鳥羽上皇の第4皇子冷泉宮頼仁親王の系脈を継ぐ道場として伝えられる。
由緒によると、文武天皇元年(697)に役小角行者が冤罪により伊豆大島に流されることになり、高弟(義学、義玄ら)が後難を恐れて、熊野本宮のご神体を船に遷し熊野灘から瀬戸内海に脱出し、内海各地を回暦3年お充当、大宝元年に児島に上陸、福岡村(林)に神体を安置、熊野十二社権現を奉載したのが始まりという。
天平12年(740)聖武天皇より児島一郡を寄進せられ、児島一島は熊野社の社領となった。天平宝字5年、権現の社殿と本地堂、五重塔、鐘楼、仁王門が完成、新熊野山と号し、さらに木見に新宮諸興寺、山村に本地堂を設けて新熊野山瑜伽寺と号し、新熊野三山と称した。
鎌倉時代になると、源平の合戦、藤戸の戦いで功のあった佐々木盛綱に、迫川庄が与えられた。このことは熊野社より抗議があり、所領を回復するが、新熊野山は次第に衰微して行くことになる。
そのような中、承久3年(1221)後鳥羽上皇は北条氏討伐の兵をあげた。これが承久の変である。土御門上皇は,これを諌めたが聞き入れられず、皇子の頼仁親王、覚仁法親王も諌めたが聞き入れられず覚仁法親王は乱をさけて、荒廃していた尊龍院に安ネオ結んで滞留していた。
結局乱は官軍方の敗北となり後鳥羽上皇は隠岐に流され、冷泉院頼仁親王は児島に配流されることとなった。
桜井宮覚仁法親王は修業を積み、熊野山と新熊野山の検校となられた。頼仁親王の長子を覚仁法親王の弟子となし、道乗大僧正と言われた。その子に6子あり、それぞれ5流の院を継いで今に至る。このようなことから長床の衆はことごとく頼仁親王から出ているといわれる。
児島高徳
五流尊龍院の由緒には次のようにある
「頼仁親王の長嫡道乗大僧正に六子あって、澄意、頼宴、親兼、隆禅、澄有、昌範と言い、澄意は尊龍院を嗣いだが子がないので、頼宴大僧正が後を襲い、その三男三郎は外戚三宅範長の家を継いだ。之が元弘建武の忠臣児島高徳公である。」
三宅範長とは、坂越の領主として南朝方で戦った和田一族、和田範長である。
児島高徳誕生の碑は五流尊龍院の中にある。
児島高徳生誕碑


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後鳥羽上皇供養塔

熊野神社の門前、駐車場の脇に宝塔が建っている。これが後鳥羽上皇供養塔である。承久の乱で隠岐に流された後鳥羽上皇の冥福を祈って頼仁、覚仁両親王が建てられたもの、応仁の乱で兵火に包まれた跡を残している。昭和45年、46年の解体修理の際、上皇の遺骨が発見された。国重要文化財に指定
宝塔(後鳥羽上皇宝塔)
熊野神社の南側には桜井宮覚仁親王のご墳墓がある。
覚仁親王墳墓

熊野神社と児島高徳誕生碑

先日、赤穂の坂越に児島高徳の墓を訪ねて行ったので、誕生の地と言われる、児島の五流尊龍院を訪ねることにした。
まず、熊野神社を訪れる。火災に遭った長床も再建され、昔ながらのたたずまいが迎えてくれた。
長床
熊野神社12社権現

児島高徳

吉備楽土http://kibinokojima.blogspot.com/に児島高徳の墓訪問http://kibinokojima.blogspot.com/2010/06/blog-post_4155.html記を載せました。
児島高徳と言えば、南北朝期の忠臣として名高いが、最近はその名前も知らない人が増えている。
太平記に詳しくその歩みが記されているが、その他の記録には名前を見ることができないので、一時は実在しなかったのではないかとの説もあったそうであるが、今はそのような説は消えていいる。その代わりと言っては何だが、地元岡山県、わが郷土児島でも知らない若者が多くなっている。ここで少し児島高徳についてまとめてみたいと思う。
 
鎌倉末期、元弘2年(1332年)後醍醐天皇を中心に幕府打倒の動きの中、元弘の変により隠岐に流されることになった後醍醐天皇を船坂峠で奪おうと決起した児島高徳は、それを果たせず、院庄の館にある桜の幹に十字の詩を刻んで忠孝の志を伝えたことは良く知られていることである。
元弘三年(1333年)隠岐を脱出した後醍醐天皇が伯耆の船上山で挙兵、ここに高徳も加わった。建武の新政が始まったが、足利尊氏が離反、尊氏に通じた反乱に抗するために戦いを続けるが、三石城を奪われ、その後も苦戦を強いられ、再起を図るり転派戦を続けるが、最後は上野で亡くなったとも、児島で亡くなったとも伝えられる。
ここ坂越には高徳の義父和田備後範長の城があり、熊山の戦いの後、傷をいやすために妙見寺で療養したと、記されている。
児島高徳の墓


常山城と鶴姫

今日は常山城と鶴姫の話をした。
常山城の女軍の話は有名である。
常山城主上野隆徳の妻、鶴姫は、備中松山城主の三村元親の妹であった。三村氏は毛利の一党であったが、織田と結び毛利に対抗するようになった。毛利は宇喜多と結び、松山城を攻めこれを滅ぼした。そして一族であった、児島の常山城を攻撃にかかった。上野隆徳は四国の三好氏に人質を差し出し援軍を頼むが、何の答もなかった。常山城にたてこもって戦うが、多勢に無勢、もはやこれまでと、隆徳の義母から自害し、さらに次男を刺し、隆徳と嫡男も互いに自害して果てようとしていた、この時、鶴姫は「女といえども武家の娘、敵の一人も倒さずして果てることはできない」と、三村家家伝の名刀を携え、長刀を持って打って出た。最初は止めようとした、侍女たちも共に姫に従い打って出た。これに意を強くした将兵も戦いに出たが、打たれるばかりであった。最後に鶴姫は敵将に一騎打ちを望むが、「女と戦うことはできない」と言われ、鶴姫は家伝の名刀を差し出して、これを差し出すので菩提を弔ってほしいと言い残し、城に帰り、口に刀をはらみうつ伏せて自害して果てた。
その後常山城は、宇喜多氏が支配するようになり、池田藩の時代になると、廃城になって明治を迎える。
大正期になると、常山の開発の話が持ち上がり、大正12年に、女軍の墓などが作られ、公園として整備されたが、2次大戦中は、無線中継基地が作られ、入山禁止になった時代を経て、今に至る。
すれ違いの難しい、悪路だが、山上に行く道もあり、地元の学校では遠足に行ったりするそうである。
秀天橋から見た常山

児島88か所めぐり

児島人の心のよりどころは?
なんといっても由加山蓮台寺、由加大権現、古代から児島の信仰の中心地として栄えてきたが、ほかにも信仰の地が多くある。その中でも忘れてならないのが児島88か所であろう。弘法大師の御あとを慕って四国88か所は有名だが、各地に88か所がある。その中でも児島88か所は地域の人々の信仰のよりどころとなっていたのではないだろうか。
機会があれば回ってみたいと最近思うようになってきた。そこで「児島88か所」で検索すると、以下のページが見つかった。
http://taishou.web.fc2.com/kojima88/hyoushi.htm
[児島のお山の大将」さんのページである。ご本人の了解もいただいたのでリンクさせてもらうことにしました。
身近な、児島の山や山歩き、趣味のサイクリングなどのことも書いているので、ぜひのぞいてみてあげてください。
児島のお山の大将
児島をもっと楽しく、心豊かに暮らせる郷土にしたい。そんな思いで毎日過ごしています。
それで、私の応援している児島の女声合唱団「コロポーニョ」簡単な紹介ページを作っているのでそちらものぞいてみてください。コロポーニョ

児島半島史話

[児島半島史話]
児島の歴史をまとめた本はないかと探していたら、玉野市の図書館に「児島半島史話」と言う本があった。
児島白尾の出身の山崎多喜男さんが昭和50年に出した冊子である。以前岡山の図書館の郷土資料コーナーで見かけたのだが、そのご見ることがなかった。
山崎さんは三井造船に勤務の後、児島の歴史を研究、「常山城物語」も書いておられる。
白尾出身ということで、山崎家は血統もつながっているので親しみを感じる。
読んでみると、宇宙人のような話が出てきたり、ちょっと変わっていて、面白いところもあるが、変に学者の方の書いた本より親しみがあって読みやすい。
黎明期の児島の姿が見えるようである。児島と言えば、古事記、日本書紀にも出てくる「吉備の児島(子島)」
かねてより、瀬戸内海航路の中心地で、九州と畿内をむすぶ要衝の地だった。
「白猪屯倉」が設置されて大和王朝の重要な拠点となっていた。
宗教的には磐座信仰の地だった由加山に行基が来て開山し、坂上田村麻呂が来て、鬼を退治したとか、熊野の修験者たちが来て熊野社が開かれたり、と歴史の経緯がよくわかる。
地名の由来なども調べて載せてるので、児島半島研究には最適の一冊となっている。
まだ全部読み終わっていないが、今日に至るまでの歴史を参考に読ませてもらうつもりである。
プロフィール

kibinokojima

Author:kibinokojima
吉備の児島へようこそ!
古代から歴史に輝く吉備の児島
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