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児島屯倉と白猪屯倉

古事記、日本書紀に[吉備の児島]の記述がある。
そしてこの時代の児島の位置づけをもっとも明確に知ることが出来るのが、[児島屯倉]と「白猪屯倉」の設置にかかわる記述である。
日本書紀によると白猪屯倉は欽明16年(555)7月に、児島屯倉はその翌年に蘇我稲目宿禰らが吉備に直接出向いて設置したとある。
この時代は蘇我氏がその勢力を拡大して行った時代であり、そのことと深いかかわりがあることが推察される。
大和王権の政権掌握にとって重要な位置づけがこの二つの屯倉設置にはあったのである。

この時代半島では、528年に新羅が金官加耶を滅ぼして併合しさらに高句麗、百済と対抗していた時代であり、倭国(日本)では538年に百済から仏教が伝来、崇仏か排仏をめぐって蘇我と物部の争いが起こった(用明2年―587年)時代であり、蘇我馬子が政権掌握を目指して崇峻天皇を暗殺するような時代である。
吉備においては5世紀末に造山古墳などの巨大古墳造られた時代から、大和の王権に従わせられて行く時代ともなって行く。

児島屯倉、白猪屯倉はこのような時代背景の中で一つは半島と西国をにらんだ戦略的位置づけで、もう一つは対岸の吉備に対する戦略的位置づけから設けられたものだと考えることが出来る。

児島屯倉の所在地は明らかにはなっていないが、郡のあたりと推定される。北浦にある[八幡大塚二号墳]は児島では最大級の墳墓であり、児島屯倉の管理に当たった重要人物の墓であると推定されている。

なお、白猪屯倉は吉備でも複数設置されたといわれ、児島屯倉は児島に特有の屯倉である。
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