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岡山出身の異色の小説家「江見水蔭」について

江見水蔭
これまであまり知らなかったが、今回、岡山人物銘々伝を語る会で田中浩明さんが発表した、内容によると、ずいぶん活躍していたんだなあと、はじめて知った驚きでいっぱいです。
水蔭は岡山藩士、江見鋭馬の長男として明治2年、1番町1丁目に生まれた。父親は勤皇の士で、岡山藩の維新三尊と言われた人物で、母親は父が播州赤穂藩士村上真輔で、藩内の軋轢で暗殺され、その子、四郎らが高野山で仇討をした。(これは日本最後の仇討と言われれる)
幼くして父を亡くし、祖父に育てられるが、伯父の勧めで上京、16歳の時、教育者・思想家であった杉浦重剛の称好塾に入塾、そこから東京英語学校に通う。
18歳の時、尾崎紅葉らの文学結社 硯友会のメンバーになり、数多くの作品を書いた。
最初は純文学を書いたが、その後は通俗的な時代小説や、探偵小説などを盛んに書いた。
資料によると、明治期の作家の中でも、水蔭の作品数は、第一位となっており、自称2000作ともいわれるほど多数の作品を書いている。
明治36年、シェークスピアの「オセロ」を翻案して戯曲を書き、これは、川上音二郎と貞奴が主演して前項を公演して回り、有名になった。
水蔭は、相撲に熱を入れ、「文士相撲」を始めた、これはその後学生相撲と変わっていった。
また、明治42年には両国に相撲の常設館が建設されるが、その名前の「国技館」は、水蔭があいさつ文を頼まれ、その中に「そもそも、相撲は日本の国技、朝廷これを奨励せられ・・・」の言葉から名づけられ、「国技館」の名付け親とされている。
また、考古学にも興味を持ち、自宅に太古遺物陳列所を作り、その収蔵品は2万7千9百点余りもあったといわれる。
晩年は講演活動などをして回っていたが、昭和9年9月、岡山講演を予定していたが、室戸台風の影響で、それができず、四国を講演中、松山で肺炎にかかり、闘病、亡くなった。66歳であった。
水蔭は明治期の作家として、きわめて多くの作品を残し、脚光を浴びたが、地元岡山ではあまり知られていない。これは岡山では、あまり文士を歓迎しなかったのと、父親が勤皇の士で、有名人で会った人物で、かえって小説家となった水蔭を蔑視する風潮があったといわれる。
文壇では田山花袋を育てたりしているが、「自分は学問がない、それで二流三流扱いをされた。」とも述べており、尾崎紅葉などとの軋轢が、その一因だったとも見られる。
今回講演してくれた田中浩明さんは、東京品川を訪ねたり、水蔭の生家跡(番町1丁目、新鶴見橋のたもと辺りにあった)を訪ねたり、国技館の資料や、川上音二郎が演じた「オセロ」のポスターや、その他多数の資料を準備いて語ってくれた。
郷土岡山では、あまり尊重されなかったようだが、国技館の名付け親になったり、その事績は極めて大きなものがある。改めて光を当ててみるべき人物だと思った。
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